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お知らせ

田辺聖子さん 三回忌と日記の発見について

館長 中 周子

 2021年6月6日、田辺聖子さんの三回忌を迎えました。
 今から十余年前、2007年の6月10日、母校の樟蔭学園に田辺聖子文学館が設立されたことを心から喜んで下さったことが昨日のように思い起こされます。いつお会いしても「樟蔭は楽しかったわ」と仰っていた笑顔を忘れることは出来ません。
 折しも「朝日新聞」(6月8日)と「文芸春秋」(7月号)に、樟蔭女子専門学校時代の「日記」発見のニュースが掲載されました。戦時下の時代と人間を見つめる多感な少女が綴る「日記」は、貴重な「昭和」の資料であるのみならず、田辺文学の原点ともいうべき重要な「作品」でもあります。
 日記中には、在学当時から樟蔭を誇りに思って真摯に学んでおられたことが随所に書かれています。
 勤労奉仕から戻って、何か月ぶりかで登校した時には「私はこんな美しい校舎で学んでいた生徒なのだ。樟蔭は立派である」(昭和20年5月21日)との感慨を抱いたとあります。
 また、終戦後に再開された授業を受けた日には、学べる喜びに躍る心が綴られています。
 「今、授業している。久しぶりで聞く講義、しかも以前とはまた心がけがちがう。私は必死になって勉強しているけれども、勉強はどんどん身体の中へ吸収されるようで快い。」(昭20年9月4日)
 「勉強が始まって、私はまた希望に燃えつつ日々をすごしている。面白い。まったく、国文学は極めれば極めるほど愉快だ。」(昭和20年9月9日)
 この他にも、予習と復習を怠らなかったことや、当時の授業の様子も描かれています。
 そして、空襲で家を全焼し、過酷な体験を経てなお、「私ははてしれぬあこがれへ、心を飛揚させる。何かしら漠々としたとりとめのないたのしさが待っていそう」(昭和21年12月31日)という未来への希望と夢を持ち続けていたことが記されているのです。
 「来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない」(昭和21年12月31日)と、作家の道を歩むことを決意されたのが、樟蔭時代であったことにも感激しました。

 文学館の壁面には、四百冊を越える田辺作品を展示しています。田辺さんのご功績の第一は、幅広い年代層に読まれるバラエティに富んだ作品を創作されたことといえましょう。
 小学生にも分かりやすく面白く書かれた『百人一首』などの古典の紹介、乃里子三部作をはじめ若い女性に向けた、わくわくするような恋愛小説の数々、働く女性への応援歌ともいえる作品群、人生の機微や陰翳を知る大人の恋や人生の滋味を語る小説やエッセー、年老いる事の不安を吹き飛ばすように元気な歌子さんの姥ざかりシリーズ。そして、古典に取材した小説群は原典よりも面白く、作品の隅々に古典世界への博識がきらめいています。『隼別王子の叛乱』は、『古事記』や『日本書紀』に描かれた古代文化の考証に基づき、20年かけて壮大なスケールの恋物語に仕立てられました。『新源氏物語』は、田辺さん流の温かい人間観と美しい現代日本語を駆使して、王朝物語を現代小説として蘇らせた作品です。『私本・源氏物語』は関西弁で庶民の視点から書かれた抱腹絶倒のパロディです。また、与謝野晶子、小林一茶、杉田久女、川柳作家の岸本水府たちの生涯を、研究者に勝るとも劣らない緻密な文献調査に基づきつつ、豊かな想像力によって描いた評伝小説があります。また、『欲しがりません勝つまでは』や『楽天少女通ります』などの自伝的小説には、激動の「昭和」という時代の証言者であろうとする硬質の作家精神が窺えます。
 心に響く言葉も多く残してくださいました。「人生を生きるのに、愛するもの、好きなことを一つでも多く増やすのは、たいへん、たのしい重要なこと」という言葉も、すんなりと私達の心に入ってきます。そして、戦争と震災という全てを破壊する過酷な体験を乗り越えての言葉であることを思う時、「ひらたいことばで伝わる事は、ほんまは多いから」と仰っていた田辺さんの平易な言葉のなかには、人生の真理と人間の真実が詰まっていることを痛感します。
 田辺聖子さんの三回忌を迎えて、本館は、これからも田辺文学の魅力を広く発信し、田辺文学研究の発展・促進に資する文学館でありたいとの思いを強くしております。
 コロナ禍のために休館が続いておりますが、再び皆様にご来館いただける日が来ることを祈っております。